私の最初の結婚は昭和28年である。其の頃は青野ケ原の禅寺(慶徳寺)の風呂場に筵を敷 いて住んでいた。妻は病気で寝ていた。正確には未だ妻ではない。私は「結婚式を挙げる」と木村に電報した。彼はやってきた。馬小屋程は広くない筵の上で、私はそっと妻を起こし、母が着物を羽織らせた。牧師も神主も居なかった。此のニ中の友人と母と妻 と私は軽くお辞儀をした。これが結婚式であった役場へ行って入籍の手続きをした。家内は三ヶ月後に亡くなった。
木村に電報を打った。彼は新開地(神戸)の裏の音楽喫茶の片隅で涙を流した。
彼は「必死」になる性格を自分で知っていて、ユーモアを飼おうとしていた。事実ユーモア小説を自費出版もした。彼はよく二人の可愛い娘さんを連れて一家で我が家を訪れた。新野辺(加古川)という海浜の寒村であった。それから十数年が経った。 出張で神戸へ出た私は久しぶりに木村に電話した。夜中の二時頃だった。「今から来てくれや。」と彼は言った。「無理や。もう電車も無い。次、出張のとき会おう。元気でな。」と私は言った。
翌日、彼は自ら生命を断った。
娘さんからの訃報を聞いた私は、彼が一番心を許していた六高時代からの友、安倍晋太郎に電話した。自民党の秘書は胡散臭そうに「貴方と先生はどんな関係か」「先生はいま外務委員会に出ていらっしゃいます。」といった。「木村が死んだと伝えて くれ。」と電話を切った。安倍はすぐに電話口に出た。「どうしたんだ?」「何故、木村は死んだんだ!!!」 まるで、国会よりも旧友の死が彼のこころに重くのしかかってくるようであった。」
家内も逝った。木村も逝った。安倍も逝ってしまった。
ふと、庭に眼をやると友人から贈られたチューリップの大輪が今年もそこにあった。
(了)
後記:木村は母校の倫理社会の教諭になった。しかしそこで既に新制高校にまで牙城を広げ ていた共産党に頭を悩ましていた。教師が生徒に土下座さされるんだぜ!」と嘆いた。自ら命を絶つことは良くない。とは言えるだろう。然し純真でプライドの 高い繊細な神経の持ち主が時代の暴力にずたずたに神経を引き裂かれる苦痛は本人でないと分からないのかも知れない。
同じようなことがもう一つある。これは木村に「ガリ」という仇名を付けた男だ。その年は 厚生省に次官候補に相応しい人間が居なかったので、彼を大蔵省に頭を下げて貰いうけたといわれている。大体この辺は毎年新採用者の中から次官候補決めて採用する。彼が京都の役職にあった時、健康保険の今日の基礎を作った。そして連日のように共産党との激しいやりとりがあった。「課長お前何言うとんのんや。」「言いながら灰皿から煙草の灰を掴んで顔にぶつけるんやで」彼はそういった。「怒ったら負けやからな」「何食わぬ顔でそっと手で顔を拭くんや」。会議が終わると、彼は飲み屋へ駆け込むのであった。
一年も続くと完全にアルコールにやられる。これも精神が弱いと言ってしまえばそれまで だ。彼は「二十歳のエチュード」を書いた原口統三と仲が良かったし、中村稔(文化勲章)の最初の手作りの詩集は彼が作ったのである。健康保険も厚生年金も文句はやまほどあろう。然し此のような戦いがあって何とか生活することが出来る。機構や基礎や構想が無くては何も出来ないのだと思う。何でも絶対反対 していて生まれるものは何も無い。彼は三十五年間アル中で苦しんで今年の一月に鬼籍に入った。
「おい、文学とは何だ」と聞いたとき、瞬時に「それはお前目に見えない物を言葉というマチエールを使って目に見えるようにすることだよ」と私に教えてくれたいい男だった。
保守中道の茨の道は敗戦直後から65年間ずっと続いているのです。共産党や反日集団の保守に対する攻撃は今に始まった事ではありません。
2010年05月06日
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