【てふてふのこと6】一阿の言の葉 第65話

「てふてふのこと」も安西冬衛の三行詩に始まり、戦後の文部省や国語審議会の日本国語に対する誤導問題から文語文のことになり、やがて昔の尋常小学校の国史教科書(文語体)の韓国併合と本居宣長へ続きました。

本居宣長と言えば、大作「本居宣長」を著した小林秀雄が思い出されます。
三月一日の産経 新聞で「小林秀雄の講演未発表音源見つかる」と題した記事で、本居宣長を「新潮」に連載開始した年に、彼が国学院大学講堂で学生に本居の学問に対する姿勢を語り、その「豪傑」と言えるほどの強固な意思を伝えています。
そして十一年にわたる小林晩年のライフワーク本居宣長の構想が伺へるとしています。

小林は当時の学者にとって、読書とは「論語」「万葉集」「源氏物語」など古典を熟読するもので、繰り返し読み、合点し、違いを知ると言う本への向き合い方は恋愛に似ていると言っています。
こうして「古典」と交わり、「思って得る」姿勢は、現代の「事実を学んで知る」と言う客観的態度と大きく隔たるとしています。

昔と現代を埋めるには想像力が必要で、想像力を働かして、どういう人間であっただろうかを見るのが、歴史の眼目だと言っていますが、その姿勢が「本居宣長」全編を貫いて居り、講演にはそのことが良く出ているとしています。

想像といってもいい加減に想像するのではなく、何度も何度も資料を読みつくし、深く思い を凝らすことで、小林にはこんな逸話があります。

学生時代のことです。友人からクラシックのレコードを借ります。
あのメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトのホ短調です。
一日に何十回となく聴き続け返したときには、レコードが擦り切れて音が聴けなくなっていたと言うのです。其の上での想像なのです。

新潮文庫の「本居宣長」(小林秀雄)の最後の頁に、小林秀雄と江藤淳の対談があります。
「現代人は意識できることだけに頼りすぎる。意識できない記憶の大切さを忘れてしまっている。」 この言葉が最後の頁を飾っています。

表面の意識は、理解に繋がります。意識の底の領域は納得に繋がります。
日本人と西欧人の差は理解と納得です。

今裏で進んでいるのは、国会図書館に関する法律です。
膨大な国会図書館の資料を駆使して過去の日本の侵略行為を洗い出し、朝鮮や支那の所謂歴史認識に近づけようとする動きです。

小林秀雄の想像と言う精神の作業は、書籍や資料の熟読と精査のすえの精神的作業者が真の 日本人である場合を言うのであって、
之が反日、嫌日の所謂左翼知識人であった場合は、全く後世の人達にとって醜悪な歴史作業になる惧れがあります。
東大の中にある歴史編纂所も然りです。

国会図書館 NHK 朝日新聞は共産党の多い集団として有名です。
小林秀雄が「かしこい人達」として軽蔑した、軽はずみを戒めたいも のです。

 (「てふてふのこと」了)

2010年03月22日

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