【ふとした思い出1】一阿の言の葉 第66話

鳥雲に 忘れしことの 限りなし。  一阿

思い出そうとしても、思い出せないことが増えました。
然し強烈に心に残っていることが時々あります。此れもその一つです。

母は二十四歳で夫を失い、七十二歳で亡くなるまで独身ですごしました。
母一人子一人です。子供に自分の人生をかけました。
然し大日本帝国の前線の苦境を知るや、惜しげも無く息子を国に捧げました。
軍国の母とか言うものではありません。そのころの日本は誰でも当たり前と思っていたのです。
テレビで良くある愁嘆場なんてものはありません。「頑張っていらっしゃい」。
私は十六歳。江田島の海軍兵学校へ向かいました。

昭和二十年、八月十五日。・・・・十月には卒業して前線に向かう覚悟を
していました。
母は神戸が爆撃に有ったので有馬へ疎開していました。
多少の荷物を担いで、原爆で廃墟になった広島を通って神戸に着いた私は、有馬までの線路を徹夜で歩きました。神有電車は不通でした。

疎開先に辿り着き、「ただいま、もどりました。」「申し訳ありません。」と言いました。
戦いに負けたのは自分が前線に出て死ななかったからだという一抹の申し訳無さがありました。十八歳でした。

半年程して、我々も大学へ入れることになりました。私は学問がしたかったので、母にそう言ひました。
母は「うちにはお金が無いから、東京の伯父さんに頼んで見なさい。」と言ひました。

その頃、日本の人口の何%かは餓死する筈でした。事実米は全く無く、良いところで芋でした。
そこへ食べ盛りの若者が転がり込むのですから、たまったものではありません。

伯父は「東大へ入ったら世話をしてやる。」と言いました。
まさか入らないと思ったのです。
所が運というのは不思議なもので、入ってしまいました。
江田島の教官が艦長をしておられた、「占守」(復員船)に乗せてもらうことを予約しておりましたが、教官に訳を話しに行きました。
教官はとても喜んで大学行きを進められました。

所がどうでしょう。大学は左翼の巣窟だったのです。
大内兵衛 有沢広美 山田盛太郎 横田喜三郎 宮沢俊義 美濃部亮吉
と言った共産党や左翼の連中に牛耳られていたのです。

(続く)

2010年03月23日

一阿のYouTubeチャンネルはこちら
https://www.youtube.com/@ichia369/videos

タイトルとURLをコピーしました