前回は「韓国併合」でしたが、今回は「本居宣長」を載せます。
大正の末期から昭和の初期 にかけて、日本の子供達は、ここに掲載するような歴史の教科書で、勉強しました。
我々も口語体でしたが同じ歴史を習ひました。
後に名著・本居宣長を著し た小林秀雄も子供の頃此の国史を習っていたのです。
彼は大正五年に小学六年生ですが、国を愛し国に誇りを持つ子供であったわけです。
尋常小学国史 下巻 文部省 第四十五 本居宣長
外には外国との関係はしまりて、やうやく事多からんとするに当たり、内には学問の進むに したがひて、尊王の論大いに起るに至れり。
これより先、学問といへばたいてい漢学なりしが、契沖といへる僧いでて、国語・国文の研 究に心をひそめしより、国学始めて起これり。
其の後国学の研究はおひおひに進み寛政の頃、本居宣長に至りて大成したり。
宣長は伊勢の松阪の人にて、はやく父を失ひ、母の手に育てらる。
八歳のころより読み書き を習ひたりしが、後契沖の著せる書物を見て、始めて国学に志し、ついに賀茂真淵の弟子となりてますますその研究を進め、遂に一代の大学者となれり。
この頃漢学者の中には、みだりに支那を尊びて、かへって我が国を卑しむの風あり、宣長大 いに之をなげき、わが国体の万国にすぐれたることを明らかにせんとて、多数の書物を著せり。
中にも世に名高き古事記伝は、古事記といふ最もふるき歴史をくはしく説明したるものにて、実にさ三十五年の長き年月を経て出来上りたるなり。
其の間、宣長は四畳半の書斎にとじこもり、日夜筆をおかず、時に退屈すれ ば、部屋の隅にかけたる鈴を鳴らして、自ら気を慰め又励みたり。
よりて其の部屋を鈴の屋と名づけたりき。 つづく
これは小学校六年生の教科書です。
周囲の良い暗示も悪い暗示もやわらかい心の奥に沁み 透って行く年代です。
戦争に負けるまでは、子供達は、国に誇りを持ち、知識ばかり多くても、我が国を貶しすぐ 支那を尊敬したり、西洋にうつつをぬかす連中に注意していました。
そういう人のことを我が家では「賢しこ兵衛」といって軽蔑していました。
小林秀雄は八月十五日以降すぐ百八十度転向して反戦平和の論をなす知識層を「かしこい人達」といっていました。
(続く)
2010年03月20日
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