我々生徒はそのご人徳を慕い昭和55年東京で三十三回忌を挙行しました。
当時NHKの名物アナウンサーであった篠田英之介に司会を依頼します。
彼も江田島の同期でした。
彼が読んだ追悼の辞のごく一部を載せます。
去り来る刻の確かさ秋彼岸
中川教官お久しゅうございます。
・・・・・私たちは知っています。
厳しい訓練に明け暮れた生徒館での生活の中で切羽詰った私たちの気持をやさしくほぐし
なじませて下さったのが いつくしみに満ちた 中川主任指導官の眼差しであったということを・・・
私たちは知っています。
「君は顔色がよくないね すぐに診察を受けなさい」という 中川主任指導官の言い付けで 診察を受けたために 一日遅れたら絶望的だった悪性腫瘍の手術が 辛くも間に合って 一命をとりとめることができた一人が 中川教官こそ 命の恩人だと いまだに 語り続けているということを・・・・
八海里(約15km)の遠漕(カッターで江田島から宮島まで)の後、弥山の頂上まで駆け足で登る競争やそれ以上に厳しい訓錬。「櫂立て」(カッターを岸につける時漕いでいた櫂を海面と直角に立てる)
の号令と共に心臓発作で息絶えた生徒もをります。
この中での優しさですから十六才頃の人間には胆に応えます。
式が終わり最後に中川夫人が謝辞を述べられました。訥々と「・・・主人は、江田島で教官をしておりましたとき官舎に帰って参りますと、こころから生徒は国の宝だ・・・、とそう申しました。
まだその声が耳にのこっております。
敗戦後は私どもの生計を立てるために、広島の女学校で鉛筆やら学用品を売っておりました。
村の方々とはあまり交際はございませんでしたが、ひとり、夫を慕ってくれる人がございまして、
丁度亡くなるその日見舞いにおいでになられました。
私は夕食の買い物がありましたので、その方に頼んで急いで出掛けたのでございますが、
その間に息を引き取りました。
後で、その方が申されますには、『私は出来ることなら第一線でお国の為に戦いたかった。
そして靖国神社に行きたかった。』
これが微かな息の中で聞き取れた最後の言葉でございました。」
(続く)
2010年01月08日
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