「皇統の危機」1 一阿の言の葉 82話

昔、尋常小学校の国史の時間、天皇がとてもお困りになられた時代があって、衣の代わりに蚊帳を纏われ、皇居の屋根からは雨漏りがした。と教えられたとき、生徒達はあまり畏れ多いので、ザワザワとざわついたものです。昭和十年前後の頃です。

先生は我々に「それでも国民は天皇陛下を敬うこころは失わなかった。」と諭すように言われホットしたものです。確か応仁の乱の頃だったと思います。

日本国民は、たとえ最高の権力者・征夷大将軍になっても天皇に対する尊崇の念だけは別格でした。驕り昂ぶった男、例えば道鏡とか頼朝とか信長も最後は悲運でした。
国民が決して許さなかったのでしょう。現象面ではなくて心の中のできごとです。

今年は皇紀ニ千六百七十年ですが、世界で男系男子の王室がこんなに長く続いた国は有りません。

大東亜戦争の最終局面で連合軍は日本国民の皇統に対する忠誠心に惧れをなして、天皇家存続をやむなく決めました。全てとは言いませんが戦後生まれの人の中には日本の皇室が世界でいかに羨ましがられ、貴重な恵みであるかを分からない人があります。

陛下の一言で日本は戦争を止めました。国民の安泰のため終戦を画策した海軍の中にも、徹底抗戦を主張した航空戦隊(厚木)があって頑として停戦を聞き入れませんでした。小園大佐です。ここには最後の抗戦の為にまだ1000機の戦闘・爆撃機が温存されていたといいます。高松宮の説得も効なく、最後は麻酔を打たれて運び出されます。そして未だに海軍の軍籍を剥奪されたままです。海軍の名簿の中には小園さんの名前は見つかりません。ここだけの話ですが、私は小園さんが大好きです。

何故海軍は65年間も彼の軍籍を剥奪したままなのでしょう。それは陛下のお言葉に反したからです。
もう一つ、何故あれほど親しかった、米内海軍大臣と井上海軍次官が疎遠になられたのか、それは皇統についての意見対立があったやに聞いています。米内さんはあくまでも皇室の安泰を希求し、井上さんは国民の生命のためなら止むを得ないという微妙な差があったと言われています。

日本の皇統はメディチ家やハプスブルグ家とは違うのです。また支那5000年と言いますが、周であったり殷であったり漢、唐や元や秦やそして宋、明と何れも民族が異なり、東夷・北狄・南蛮・西戎が代わる代わる中央に駒を進めたのです。勿論支那人もユダヤの人もとても優秀です。でもそれだけで国家として幸せでしょうか。

ユダヤは今どうなっているのでしょう。70~80年前の支那はどうだったでしょう、少し前私はケルトの国について書きました。ケルトの国は地球上どこにも存在しません。

そしてケルト人が付けた名前だけが残っています。パリ、ロンドン、アルプス・・・。


(続く)

2010年05月16日

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